「あなたがたは選ばれた世代であり、王の神権であり、聖なる国であり、独特の人々です。あなたがたは、あなたがたを暗闇の中から彼のすばらしい光の中に呼んだ彼の賛美を示すべきである。」 1 ペテロの手紙 2:9 「それぞれの信者は、自分自身のために、そして仲間の信者と、キリストが死なれた世界の人々に関心を持つことによって、神の前で祭司です。」 我らバプテスト、より、ジェームス・レオ・ガレット ジュニア(James Leo Garrett Jr.)(編集長) バプテストが、祭司であると言うと、一部の人にとっては奇妙に聞こえます。しかし、私たちはそうなのです。私たち一人一人がそうなのです。実際、バプテストは、イエスを主であり救い主であると信じる者はすべて祭司であり、祭司なる信者達であると主張しています。万人祭司の概念はバプテストにとって基本的なものです。バプテストにとって重要な他のいくつかの信仰と同様に、私たちはその概念が何を意味するかについて、さまざまな解釈をしていますが、私たちは皆、万人祭司の聖書の真理を大切にしています 祭司になるとはどういう意味ですか? 祭司になるには、機会と責任の両方が伴います。旧約聖書では、祭司が神の礼拝において特別な位置を占めていました。祭司は、動物のいけにえのささげ物など、礼拝の特定の場面に責任がありました。彼らは人々と神との間の仲介者としての役割を果たしました。 しかし、ユダヤ人達の宮の至聖所に入ることが許されたのは、祭司長である大祭司だけでした。この特別に神聖な場所は、宮の他の部屋や他の祭司達や礼拝者から大きなカーテンやベールで隔てられていました。 イエスの生涯と死と復活によって、これらすべてが変わりました。神の子羊であるキリストが罪の生贄として身を捧げたので、もはや、動物の生贄は適切ではなくなりました。これは一度限りで、すべてのための行為でした。 イエスの十字架でのはりつけで、神殿の大きなベールは「上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ 27:51)。これは、大祭司であるイエスが今や神と人類の間を仲介していることを示しています。旧約聖書に出てくるような祭司は、もはや必要なくなりました。確かに、イエスを信じるすべての者は、神に直接近づくことができる祭司になります。人間の仲介者はもはや必要ありません。私たちは、祈り、告白、賛美、礼拝で直接、神に近づくことができます。なんという機会でしょう! しかし、祭司であることにも責任が伴います。旧約聖書では、ある意味で祭司が人々に神を象徴していました。今日、祭司なる信者は、神についての、彼、または彼女の知識を、言葉と行動の両方で他の人に共有する責任があります。 祭司なる信者は、イエス・キリストに示されているように神の愛を証し、神の御名によって、人に仕えることによって神の愛を示す責任があります。この責任は、伝道、宣教、奉仕、他の人に利益をもたらす社会的行動など、バプテストによってさまざまな方法で実行されています。 万人祭司の概念はどこからきていますか? プロテスタントの宗教改革の指導者であるマルティン・ルターは、しばしば万人祭司の概念と結びついています。ルターは、ローマカトリックの祭司が果たす特別な役割に、ローマカトリック教会が重点を置いていることに異議を唱えました。 ルターは、すべての信者は神に直接近づくことのできる祭司であると主張しました。彼は牧師の役割の廃止を要求しなかったが、牧師だけでなくすべての人が祭司としての機能を持っていることを示しました。ルターがヨーロッパの教会の場面で騒ぎを起こす前でさえ、さまざまなクリスチャングループが万人祭司を強調していました。 しかし、バプテストのための万人祭司の概念は、ルターや他のクリスチャングループの教えからではなく、新約聖書から来ています。さまざまな新約聖​​書の箇所に基づいて、バプテストは、主イエス・キリストを信じるすべての人が直接神に近づくことができると主張しました。それぞれ個人が神に対して、直接に責任があります。それぞれが神の愛を分かち合うのです。 信者個人が祭司 バプテストが見なしている、信者個人が祭司は、別の概念、つまり魂の能力の概念と密接に結びついています。各個一人一人には、神のみこころを知り、それに従うという神から与えられた能力があります。主であり救い主であるキリストに従うという決断は、個人からなる決断です。誰も別の人のためにそれを決めることはできません。祭司なる信者であることは神からの贈り物であり、人間の功績ではありません。それは救いと共に与えられます。 祭司なる各信者は、彼、または彼女自身の行動に責任があります。個々の信者は、人による仲介者の助けを借りずに直接神に近づくことができます。個人は、宗教関係者が何を信じるべきかを指示することがなくとも、自分で聖書を読んで解釈することができ、またそうするべきです。 祭司なる信者たちはすべてキリストにおいて互いに平等です(ガラテヤ 3:26-28)。大祭司はただ一人、イエス・キリストだけです(ヘブル 7:23-8:13)。 祭司なる各信者は、キリストに献身し、言葉と行いを通して、キリストを分かち合う責任があります。ペテロが述べたように、「それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(1 ペトロ 2:9)。 したがって、教会には祭司がただ1人いるということはありません。神の愛と許しを伝え、ある信者から別の信者への関心と思いやりを示す人達がいる数だけ多くいる可能性があります。 会衆が祭司 新約聖書はまた、会衆が祭司についても語っています。祭司なる信者達はキリストの体の一部です。彼らは信者の共同体を形成します。祭司なる信者は神に対して個別に責任がありますが、すべての祭司なる信者達はキリストの兄弟姉妹として互いに関係しています。 この共同体であるという側面の万人祭司は、クリスチャンであることが他の信者との交わりを伴うという事実を際立たせています。この交わりは、信者をクリスチャンとしての成長と、信者の伝道を励まし、助けるために機能します。他の信者から孤立してクリスチャン生活を送ることはどれほど悲しくて難しいでしょう。 祭司なる信者の交わりは、聖書を解釈し、神のみこころを理解するのにも役立ちます。祭司なる各信者も、彼、または彼女自身のために、聖書を読んで解釈することができ、またそうすべきですが、有能で賢明な信者は、他の祭司なる信者達から、洞察と理解を求めます。過去の祭司なる信者達の教えを調べ、現在の祭司なる信者達の知恵を探求することによって、人々は聖書と神のみこころを理解するのを助けられています。 バプテストの教会のモデルは、会衆が祭司の概念に基づいています。教会は、イエスを救い主であり主であると信じ、信者との特別な交わりと自発的に結びつくことによって、神から与えられた能力を行使した人々で構成されています。 交わりの中での祭司なる各信者は他のすべての祭司と同等です。したがって、誰も、誰に対して権限を持っていません。したがって、決断は、教会のかしらであり、大祭司であるイエス・キリストのみこころを知るよう務める祭司たちの共同体によって決められます。彼らは、祈り、聖書研究、瞑想、話し合い、そして決断によってこれを務めます。 結論 …

バプテスト:信者個人が祭司ですか? それとも会衆が祭司ですか? Read more »

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ人への手紙 2:8-9 気軽な会話、映画、テレビ番組、漫画などすべてが、救いに対する一般的な概念が次のようではないかと示しています。人が死ぬと、神は善行と悪行を比較検討します。善が悪を上回っている場合、その人は天国に入ります。悪行が善行を上回っている場合、その人は地獄に行きます。 (時には地獄がこの描写に入っていないこともあります。)言い換えれば、人間の努力と働きが、天国か地獄への道を開くのです。 聖書の救いの描写は完全に異なります。聖書は、すべての人が罪を犯したこと(ローマ人 3:23)と、罪に対する報いは、永遠の死であることを明確に教えています。しかし、神はその恵みによって、罪が赦され、地獄が避けられ、天国が得られる道をお与えになりました。その道とは、神の御子であるイエス・キリストへの信仰です(ローマ 6:23)。 聖書によれば、救いは、人間の努力や働きによってではなく、恵みと信仰によってのみとなっています(エペソ2:8-9)。善行の価値を否定するものではありませんが、私たちの歴史を通して、バプテストは、救いは、信仰を通して、恵みのみからなるもの、という真理を宣言してきました。 救いのための恵み/信仰のみ バプテストは、聖書はすべての人間が罪を犯すこと、つまり神に背くことを選んだと教えていると信じています。罪から来る報いは永遠の死です。人はこの苦境から身を守ることはできません。神は人類への愛から救いをお与えになりました(ヨハネ 3:16)。 神の救いの賜物は、神の御子である主イエス・キリストへの信仰を通して得られます。イエスは、イエスの生涯と十字架での死によって、永遠の死から永遠のいのちへの道を与えます。その道は、神の恵みの現れです。その道は信仰によってのみ歩むことができます(ローマ 5:1-2) 聖書は、失われた人類にイエスがどのように救いを与えるかを説明するためにさまざまな言葉で彩られていますが、いずれの場合も、メッセージは明確です。救いは、主であり救い主であるイエス・キリストへの信仰によってのみ得られます。いくつかの教派には、バプテスマ、教会の会員、善行、礼典などが救いに必要なこととして含まれています。バプテストは、救いは、神の恵みの賜物であるイエスへの信仰によってのみもたらされると主張しました。 救いは無償でもあり、代償も伴います バプテストは、救いは無償であり、神からの贈り物であると主張しますが、その代償も宣言します。救いは神に、神のひとり子の死を犠牲にしました。救いは、私たちの罪のために十字架でのはりつけによる屈辱、苦しみ、そして死をイエスに負わせました。何世紀にもわたって救いのメッセージを共有することは、多くの信仰深い証し人達への拷問、投獄、そして死を犠牲にしてきました。救いはまた、神の恵みの賜物に、信仰によって応答する人に代償を伴います。それはその人自身、彼、または彼女の、古い生き方、自己への死という代償を伴います(マタイ 16:24-25)。 したがって、救いは決して軽視されるべきではありません。救いについて軽薄に話すことは、その膨大な重要性を否定することになります。バプテストは、すべての人の永遠の運命は、神の恵みの賜物である、イエスへの信仰の応答にかかっていると信じています。したがって、バプテストは伝道と宣教のために、情熱的に努力していることで知られています。 救いは、信仰を通した、恵みの過程です 事実上、すべてのバプテストの信仰の声明は、救いには「新生」(「義認」を使用する声明もあります)、「聖化」、「栄光」が含まれることを聖書が明らかにしていることを強調しています。一部のバプテストはそれを次のように表現しています。私たちは罪の罰から救われ(再生)、罪の力から救われ(聖化)、罪の存在から救われるでしょう(栄光)。または他の人が言うように:私たちは救われました。私たちは救われています。私たちは救われるでしょう。 真理がどのように表現されても、恵みと信仰に重点が置かれています。神の恵みは、人がクリスチャンとしての旅を始めるだけではなく、それを完了することも可能にします。救いの道は信仰によって歩みます(ガラテヤ 2:16-20)。 救いの過程は、未来だけでなく、今現在でも人生を変えるという結果になります。良い働きが救いをもたらすのではありません、救いが良い働きをもたらすのです(エペソ 2:10)。 真の信仰を強制することはできません バプテストは、人に救いのためにイエスを信じさせるような努力を全くしてはならないと主張しています。実際、バプテストは真の信仰を強要することはできないと信じています。真の信仰は自発的でなければなりません。 バプテストは、イエスは、だれにもイエスに従うように強制したことは一度もないと述べています。イエスの宣教は、人々がイエスを信じるか、拒絶するかを選択する能力を持っていることを示しています。イエスは信仰と不信仰から来る報いを明確に述べましたが、人々にイエスに従うように促したとき、彼はいかなる種類の強要も決して使用しませんでした。さらに、イエスの弟子たちは常に福音への自発的な応答として信仰を示しました。 したがって、バプテストは、人がイエスへの信仰を表明するように強要されてはならないと主張しました。ジョージ・W・トルート(George W. Truett)が観察したように、「迫害は人を偽善者にするかもしれませんが、彼らをクリスチャンにすることはありません。」バプテストは一貫して選択の自由、つまり宗教の自由を主張してきました。 恵み/信仰と神の主権/人類の自由意志 バプテストは、救いは常に、信仰のみを通して、恵みのみからなるものであると聖書が教えていることには同意しますが、彼らは恵みと信仰が救いにどのように関与しているかについては異なっています。たとえば、すべてのバプテストが神の主権と人類の自由意志の関係に同意しているわけではありません。 一部のバプテストは、神の主権を強調し、神の恵みによって救いを運命づけられた人々だけが信仰によって救われると主張しました。彼らは、この救いを失うことはできないと主張しています。他のバプテストは人類の自由意志を強調し、一般的に、神の恵みの賜物である救いに、信仰によって応答する人は誰でも救われることができると考えました。彼らの中には、この救いが失われる可能性があると信じている人もいます。 ほとんどのバプテストは、聖書は神の主権と人類の選択の自由の両方を示していると信じています。これらの2つの真理は、人間の知恵では理解できないでしょうが、バプテストは一般的に両方を保持し、それらを理解させるための努力なしに、調和しています。 1840年にユニオンバプテスト協会の「信仰の記事」を書いたバプテストの人達が述べたように、「私たちは、責任を持ったものとして、神の主権の教理と人間の自由作用を信じています。」彼らはまた、「私たちは、栄光への恵みによる聖徒の永遠堅持を信じています」と宣言しました。 したがって、ほとんどのバプテストは、キリストを、彼、または彼女自身の主であり救い主であると信じるか、キリストを拒絶するかを選択する自由があると主張しています。彼らは、悔い改めとイエスの贖いの生涯と死と復活への信仰を通して応答する人は誰でも救われることができると主張しています(1 テモテ 2:3-4; 2 …

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「あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。」 ヨシュア記 24:15 魂の能力は、バプテスト特有の、主要のものですか?過去と現在の非常に優れたバプテストの指導者達の中には、そうであろうと主張している人もいるようです。 「…神の下の宗教における魂の能力の原理は、バプテスト特有の世界の思想への貢献である…。」 E. Y.マリンズ(E. Y. Mullins)(b.1860 – d.1928) バプテスト教育者/神学者 「この原理から、他のすべてのバプテストの信仰の他の要素がきています…。」 ハーシェル・H・ホッブズ(Herschel H. Hobbs)(b.1907 – d.1995) バプテスト牧師/神学者 「魂の能力の概念は、ひとつの教理以上のものです。実際、それは他のすべての信仰の教理を裏付けています。」 H.レオン・マクベス(H. Leon McBeth)(b.1931 – d.2013) バプテスト教育者/歴史家 魂の能力の意味 「魂の能力」とはどういう意味ですか?この概念には、魂の自由、良心の自由、魂の能力など、さまざまな用語が使用されています。基本的に、それは神から与えられた自由と、神のみこころを知り、それに応答する人の能力を意味します。バプテストは、神が人々に選択をする能力、つまりアビリティを与えると信じています。人間はあやつり人形や機械ではありません。 バプテストは、この能力は単なる人間の特徴ではなく、神からの贈り物であることを強調しています。天地創造において、神は人に選択をする自由を与えました。創世記が記す天地創造では、この自由がそれに絶大な責任をもたらしたことをとても明確に説明しています。私達は私達の選択に責任があります。神は良い決断と悪い決断に、その報いをもたらします。私たちが、私たちの自由を神に従う事に使うならば、私たちには、いのちがあります。私たちが自由を使って神を否定すると、その結果は死になります(創世記1-2)。 聖書と魂の能力 聖書は魂の能力の例えで満ちています。聖書は、人々が選択の自由を持っていることを事実と見なしています。聖書はまた、人は神に対して、彼らの選択について責任があると教えています。 たとえば、神の、十戒の賜物は、人間がそれらを理解する能力と、それらを受け入れるか、それとも拒否するかという自由を前提としていました。受け入れられると祝福がもたらされ、拒絶されると罰がもたらされました。しかし、いずれにせよ、能力と選択の自由が想定されていました(出エジプト 20:1-17)。 イスラエルの人々には選択肢が与えられ、決断を下す能力を示しました。ヨシュアは、「あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。」と宣言しました(ヨシュア 24:15)。人が選択する能力や自由がなければ、この挑戦​​は無意味だったでしょう。 エリヤ、エレミヤ、イザヤなどの旧約聖書の信仰の英雄たちは、政府の支配者達に良心の自由を放棄することを拒否しました。 さまざまな面で、新約聖書は魂の自由を肯定しています。イエスは、個人が彼に従うかどうかを決断するために神から与えられた能力を持っていると前提していました。イエスは、人々は信じるか信じないかは自由であるが、彼らの選択について、責任を問われると述べました(ヨハネ 3:16-21)。信じて従った人もいましたが、信じなかった人もいました(マタイ 19:16-22)。 イエスは決して人に彼に従うように強要した​​り、強制したりしませんでした。したがって個人の魂の自由を決して侵害しませんでした。 …

魂の能力は バプテスト特有のものですか? Read more »

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」 2 テモテへの手紙 3:16-17 バプテストは、何世紀にもわたって、聖書がキリスト教の信仰と慣習のための唯一書かれた究極な権威であると主張してきました。彼らは、教皇、王、司教、牧師、教師など、他のことで主張する人々に抵抗してきました。宗教的権力と世俗的権力の両方が、聖書の権威に対するこの献身のためにバプテストを迫害しました。 バプテストは聖書を権威あるものと見なします 基本的に、バプテストは聖書がその性質上、信仰と慣習に対して権威があると考えてきました。バプテスト派は、聖書の神性がその権威の基礎であると主張しています。聖書に匹敵する書物は他にありません。聖書は、それが神から、そして神についての書物であるという独特な点で、他のすべての書物の中で抜きん出ています。 私たちの歴史の多くにおいて、バプテストは聖書の神性に対する信仰に基づいて聖書の権威をそのまま受け入れてきました。聖書の神性を「証明」するために多くの努力をすることなく、バプテストの信仰と慣習を検証するために聖書が引用されました。 しかし、バプテストや他の人達は、聖書が何百年にもわたってさまざまな人によって書かれたという事実にもかかわらず、聖書の驚くべき統一性、イエスの生涯と教えが旧約聖書の予言の成就であるということ、何世紀にもわたっての聖書のメッセージの継続的な関連性、人生と社会を変えるそのメッセージの力、そして聖書の中で繰り返し、神の言葉であるという主張など、聖書が神聖で権威ある性質の多くの証拠を指摘することができます。 聖書の権威の性質 バプテストは、聖書がキリスト教の信仰と慣習のために唯一の書かれた権威であることを強調し、信条、信仰の告白、伝統、神学者の教え、教派の創設者による声明などの他の書物がそのような権威を持っていることを否定します。バプテストはこれらの書物のいくつかから洞察力を得て感謝を表明するかもしれませんが、彼らはそれらを権威あるものとして受け入れることを拒否します。 バプテストが聖書を権威あるものとして非常に高く評価しているために、バプテストが聖書を礼拝していると非難する人もいます。もちろん、私たちは聖書を礼拝していません。私たちは聖書の神を、究極の権威として礼拝します。聖書は神からのものであり、神についてのものであるため、私たちにとって権威があります。 これが、バプテストがしばしば聖書を私たちの唯一書かれた権威と呼ぶことの理由の1つです。神は私たちの究極の権威です。聖霊は、「バプテストの信仰とメッセージ」が述べているように、人々に聖書を書くように促しました。聖書は「神の教えの完全な宝です。聖書は、その作者のための神、その目的である救い、そして、その事柄に対する紛れもない事実を持っています。」それ故に、聖書は私たちにとって神の啓示になります。 イエス・キリストは神の最も完全な啓示です。聖書はイエス・キリストがすべての主であることを明らかにしています。キリストの主権と聖書の権威は密接に関わっています。それらは矛盾していません、むしろ、補い合っています。 バプテストは、聖霊が人々に神についての真理を記録するだけでなく、聖書を解釈し、そして、適用するように人々を啓発または照らし出す力を与えたと信じています。 聖書は基本的に宗教的な権威です。バプテストの牧師で有名な神学者であるハーシェル・ホブス(Herschel Hobbs)は、「バプテストの信仰とメッセージ」という本の中の24~25ページで、「聖書は主に宗教の本である」と述べています。彼は次のように説明しています。「聖書が権威ある本であると言っても、聖書が人間の思考のあらゆる分野で権威があることを意味するわけではありません。科学に対しての権威ではありません。そのような主張はしていません。」ホッブズはまた、次のように書いています。「聖書は、歴史、文学、哲学、心理学、科学の教科書であるとは主張していません。それでも、これらすべての真の要素、そしてそれ以上のことが含まれています。」 聖書の権威は他の基本的なバプテストの信仰に関連しています バプテストは聖書を信仰と慣習のための唯一の書かれた権威と見なしているため、聖書はバプテストの教理と教会政治の基礎となっています。何世紀にもわたるバプテストの信仰の声明は、それぞれ定められた信仰について、常に聖書を引用してきました。 聖書の権威に基づいて、バプテストは、信仰を通して、恵みのみからなる救い、万人祭司、魂の能力、信者のバプテスマ、バプテスマと主の晩餐の象徴的なる性質、新生された者達のみからなる教会員、会衆派教会としての統治、各個教会主義、宗教の自由、そして宣教と奉仕のための自発的な協力です。 これらの基本的な信仰のいくつかは、バプテストが聖書をどのように見て解釈するかに特別な方法で関係しています。たとえば、魂の能力と万人祭司への信仰は、バプテストに、各信者-祭司は聖書を読んで理解する能力があり、そしてその祭司なる信者が、聖書を読んで解釈するための機会と責任を他の人達に委任すべきではないと主張するように導きます。同様に、バプテストは、他の人やグループの人達が、他の人に何を信じるべきかを口述する権利があると思ってはいけないと主張しています。 バプテストは、すべての人が自分で聖書を所有し、読み、解釈する自由を持つべきであると宣言しています。イエスの生涯と教えに基づいて、バプテストは信仰を強要することはできず、誰もそうしようと、試みるべきではないと主張しています。聖書の特定の解釈を、別の解釈に強制してもいけません。 聖書の教えの解釈 すべての信者が自由に聖書を自分で解釈すべきだと宣言することに危険はありますか?もちろん、危険はあります。すべての人がクリスチャンの成長において等しく成熟しているわけではなく、聖書の解釈の原則について、等しく知識があるわけではないため、おかしな、さらには、」奇妙な解釈が生じる可能性があります。 しかし、他の選択肢は、さらにもっと危険です。聖書が教えていることを決定する権限を持っている人が数人いるとします、結局のところ、そのような責任を他の人やグループの手に委ねる権限を持っているのは誰ですか?さらに、聖書学者達は聖書のいくつかの部分の解釈が大きく異なります。どの解釈が本当に正しいものであるかを誰が判断するのですか? では、人が聖書とその教えについて自分が望んでいることを自由に信じることができるという意味ですか?バプテストは自由にそうすることができると宣言していますが、それはすべての解釈が正しいことを意味するわけではありません。バプテストは、聖書を解釈するこの自由には重い責任が伴うと主張しています。人々は、聖霊の導きに応じて、祈りと謙遜を持って、聖書を研究する必要があります。聖書の解釈は、洞察力を得るために信者との交わりの中で共有されるべきです。解釈の有効な原則を使用する必要があります。理解を深めるために、過去と現在の成熟したクリスチャンの解釈と比較する必要があります。 結論 バプテストの人達は聖書に関して、多くの点で異なります。しかし、バプテストが特定の教理や慣習で異なる場合、彼らは他からの情報源ではなく、彼らの持つ見解の権威として聖書を使用します。したがって、バプテストは聖書が、特定の教理と慣習について教えていることに同意しないかもしれませんが、私たちは、聖書が信仰と慣習のための、私たちの唯一の書かれた究極の権威であることに同意します。 「私たちは、旧約聖書と新約聖書が神から啓示された者であり、それらには唯一の真の信仰と慣習のシステムが含まれていると信じています。」 ユニオンバプテスト協会によって 1840年にテキサスで採用された「信仰の記事」から。

「…すべての舌が、{イエス・キリストは主です}と告白して、 父なる神に栄光を帰するためです。」 ピリピ人への手紙 2:11 「主」という言葉には、さまざまな意味と多くの定義があります。しかし、クリスチャンとして、私たちはイエス・キリストが主であると告白します。なぜなら、私たちはキリストが誰であり、何をしたかによって、私たちの完全な忠誠、愛情深い奉仕、そして忠実な従順をキリストに対して負っているからです。 すべてのクリスチャングループは、イエスが主であるという真理を保持していますが、バプテストはこの真理に特別な重点を置いています。バプテストは、イエスが唯一の生涯の主であると信じています。彼らは、個々のクリスチャンや教会の主として、いかなる人や機関も受け入れません。この信仰のために、初期のクリスチャンのように、バプテストは政府と宗教権力者の両方から迫害を受けてきました。 キリストの主権に対するバプテストの献身の重要性 なぜバプテストはキリストの排他的な主権をそれほど強く保持したのですか?私たちは、以下を含むいくつかの基本的な信仰に立っています。 (1)聖書はキリストの主権を教えており、バプテストは聖書を信仰と慣習のための、唯一の書かれた権威と見なしています。 (2)魂の能力についての聖書の教えは、個々のクリスチャンが、究極の権威、つまり父、子、聖霊の神以外を拝さないことを求めています。 (3)魂の能力に対する聖書の強調は、キリストの主権からきています。 (4)教会の新約聖書のモデルは、キリストの主権の上に建てられています。キリストだけが教会のかしらです。 聖書はキリストの主権を教えています 聖書は、イエスがすべての主である理由を、いくつか示しています。彼は神であり、三位一体の三人のうちの一人です。イエスは、「わたしと父とは一つです」と宣言されました(ヨハネ10:30)イエスに関して、聖書は彼の中で「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」と述べています(コロサイ2:9)。 イエスは世の罪のために十字架で死なれたので、主としてのすべての称賛と名誉に値します:「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」(黙示録5:12)。 イエスは死からよみがえり、死そのものに対するキリストの力を示しました。復活したキリストに出会うと、弟子のトーマスと同じように「私の主、私の神よ。」と叫びます(ヨハネ20:28)。 イエスは天国に昇天し、私たちのために、父の右座に座り、執り成しをしています。そして新しい天と新しい地をもたらすために再び来られます。そのような方の前に、私たちは圧倒されて、「主イエスよ、来てください。」と宣言するのです(黙示録22:20)。 キリストの主権の範囲 聖書は、キリストの主権の範囲をいくつかの方法で説明しています。聖書は、イエスがすべての被造物の主であると述べています。「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10-11)   聖書は、イエスはすべての人の主であると教えています。多くの人がその主権を否定したり認識しなかったりしますが、クリスチャンにとってはキリストの主権が中心です。実際、クリスチャンとしての人生は、イエスが主であるという認識から始まります。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ人10:9) 聖書は、イエスが教会の主であることを強調しています。イエスは、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」と宣言されました(マタイ16:18)。そして、パウロはイエスについて次のように書いています、「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり…」(エペソ1:22-23)   キリストの主権と魂の能力 聖書は、キリストの主権は直接的なものであると教えています。クリスチャンに対するイエスの権威を奪おうとする、人や機関はありません。もちろん、人は他の人から洞察力と理解力を得ることができますが、クリスチャンに対する究極の権威を持っているのは、イエスだけです。 イエスの弟子になるという呼びかけは、主としてのイエス・キリストのみこころを知り、それに従う能力を前提としています。魂の能力に関する聖書の教えは、人が神のみこころを知り、実行する、という神から与えられた能力を持っていることを示しています。人はあやつり人形ではありません。彼らの創造主は彼らに選択の自由と責任を与えました。 バプテストは、個人、政府関係者、宗教団体による、イエスに従う者達に対するイエスのみこころを決定づける試みに抵抗してきました。バプテストは、一人一人が主としてのイエスの御心を見つけて従う能力と責任を持っていると主張しています。初期の弟子たちが宣言したように、「人に従うより、神に従うべきです」 (使徒5:29)。 「キリストだけが王であり、教会と良心の立法者です。」 ジョン・スミス(John Smyth)(b.1570?– d.1612) イギリス人の彼は、1609年にアムステルダムで、イギリスでの最初のバプテスト教会を創設した牧師でした。引用は彼が起草において主要な役割を果たしたという信仰告白声明からです。 キリストの主権は宗教の自由を義務付けています キリストの主権とは、人や教会が、霊的および宗教的な問題において、政府や宗教団体による強制から解放されるべきであることを意味します。バプテストは常にそのような強制的な試みを非難し、イエスだけが主であると宣言してきました。この抵抗のために、バプテストはしばしば高い代償を払ってきました。 たとえば、1600年代初頭、イングランドのジェームズ1世国王は、イングランド国教会と英国政府の長であると主張しました。彼はすべての教会が彼の意志に従うことを要求しました。バプテストの牧師であるトーマス・ヘルウィス(Thomas Helwys)は、「不法の奥義に関する簡潔なる言明」というタイトルの本を書き、王には、何を信じるべきかを人や教会に指示する権利がないと主張しました。 ヘルウィスはこの本のコピーをジェームズ王に個人的な碑文とともに送りました。彼は次のように宣言しました。「王は、いつかは滅ぶべき人間であり、神ではない故に、同様に滅ぶべき運命にある臣民の魂に対して、それを縛る法や条例、並びに、魂の支配者をお立てになる権威はお持ちになりません。」この聖書の真実である彼の声明のために、王は牧師を投獄し、そして、彼は、イエス以外でも、教会の主として認める、とういうことを拒否して、刑務所で死にました。 キリストの主権と新約聖書の教会は分けることはできません 個々のクリスチャンにとって、そして彼らが属する教会にとって、キリストの主権の下にあるとはどういう意味ですか?一つには、それは彼らがキリストを主として認めるべきであることを意味します。教会は彼らのものではなく、キリストのものです。キリストが教会のかしらです。彼らではありません。彼らは教会を支配するものではありません。キリストがそうなのです。 …

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「…あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい…」 1 ペテロの手紙 3:15 「私はただ、クリスチャンであると信じています。私は教派の一部にはなりたくありません。」このような声明を聞いたことがありますか?とても敬虔なようですが、クリスチャンの教派の一部であることに何か問題があるように聞こえます。   「教派」とは何ですか? 「教派」と「宗教組織」を区別しない人もいます。 「教派」とは、人々のグループによって共通に保持されている一連の信仰と慣習を表します。教派は通常、教派の価値観と信仰を実現するためにさまざまな組織を構成しますが、組織は教派ではなく、単なる表現です。たとえば、テキサス州のバプテスト連盟、南部バプテスト連盟、および世界バプテスト連盟は、別々の教派ではありません。彼らはバプテストの組織です。 すべてのクリスチャンがまったく同じ信仰を持ち、同じ慣習に従うことが理想的であると感じる人もいますが、そういう風になってはいませんし、なったこともありません。キリスト教活動の初めから、教会の性質、救いの方法、バプテスマの意味など、さまざまな問題についてさまざまな意見がありました。 教派は事実です。それらは存在し、消えることはありません。実際、バプテストなど、世界中で成長しているものもあります。そして教派とは重要なことなのです。それらは人の人生と世界に大きな違いをもたらします。人が属する教派はその人の人生に、確実に影響を与えます。したがって、教派が何を信じて、そして何を行っているかを知ることが重要です。 バプテストを際立たせるものは何ですか? 誰かがあなたに、「一言で、バプテストを他のクリスチャンの教派と区別するなら、何ですか?」と、尋ねたら、あなたはどう答えますか?イエス・キリストを、主であり、救い主であると信じた人々の、浸礼によるバプテスマですか?それは信者の万人祭司の観念に対する、強い献身ですか?それは宗教の自由に対する永続的な信仰ですか? これら一つ一つは確かにバプテストのクリスチャンによって保持されています。しかし、場合によっては多少の異なった解釈はありますが、他の教派のクリスチャンもそれらを保持しています。 事実、これといってバプテストを他のクリスチャンと区別する一つの信仰や慣習はありません。では、何をもってバプテストをバプテストとするのでしょうか? 信仰と慣習の組み合わせが、バプテストを他のクリスチャングループから際立たせるのです。バプテストのレシピのような感じで、バプテストのための教理と政体の独特のグループがあります。ほとんどのレシピのように、各成分はバプテストに固有のものではありませんが、全体のミックスで独特のバプテストになります。それらの成分のいくつかは他のクリスチャングループのレシピの一部にもなってますが、他のクリスチャングループはバプテストと同じ信仰と慣習の組み合わせは、持っていません。 バプテストにはさまざまな「味」があります。彼らは、キリストの再臨、礼拝のスタイル、教派の組織など、特定の問題について異なる解釈と見解を持っています。しかし、すべてのバプテストが持っている基本的な成分は、同じなのです。外してはならない成分というのもあります。それがなければ、そのレシピはバプテストとして出来あがりません。コーンミールをコーンブレッドから外し、白い小麦粉に置き換えると、コーンブレッドにはなりません。同様に、バプテストのレシピに重要な成分を省くと、バプテストではなくなります。 バプテストのレシピ バプテストのレシピの、重要な成分は何ですか?神への信仰や救い主としてのイエス・キリストへの信仰など、いくつかは、ほとんどすべての教派のクリスチャンと共通しています。しかし、いくつかの主要な事柄についてのバプテストの信仰は、他の特定のグループによって保持されているものとは異なります。たとえば、事実上すべてのクリスチャングループがバプテスマはクリスチャンにとって重要であると宣言していますが、バプテストは、ほとんどの人とは違うバプテスマへの理解を持っています。今後数週間にわたる、このシリーズでは、その違いとは何か、なぜそれが重要なのかについて説明していきます。 バプテストのレシピには、いくつかの重要な信仰や教理が含まれています: –イエス・キリストの主権 –魂の能力 –信仰と慣習のために唯一の書かれた権威としての聖書 –神の恵みの賜物である、主であり、救い主であるイエス・キリストへの信仰によってのみ、罪と永遠の死から、許しと永遠の命への救い –各信者と、キリストを信じるすべての会衆が祭司 –信者のバプテスマ –バプテスマと主の晩餐は素晴らしく象徴的ですが、救いに不可欠ではありません –新生した人だけで構成される教会の会員 –宗教の自由、そして、そこから生じる政教分離 これらの信仰の基礎の上に構築されているのが、バプテストのレシピの一部である特定の慣習または政体です。 –キリストの主権の下での会衆派教会としての統治 –各個教会主義 –さまざまな場合での自発的な協力 これらの信仰と慣習に密接に関連しているのが、ほとんどのバプテストを特徴付けるいくつかの重点です。 –伝道 –宣教 –キリスト教教育 –奉仕 –社会問題への関心 これらを実行するために、バプテストは、教会同士の協会、共同体、連盟、交わり、ユニオン、同盟など、教会を超えて、様々な方法で組織して行きました。バプテストはまた、教育、宣教、子供、高齢者、病気の世話をするための機関など、数多くの機関を設立しました。これらすべてに共通する成分は、自発的な協力です。 …

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「実にすばらしい私へのゆずりの地です。」 詩篇 16:6 「すべてのバプテストの人達は、神の言葉による、特別な命令によって、自分がバプテストである理由を、知る必要があります。そのような知識を持たないことは、私たちの教会があらゆる面で害を受ける、ということになります。」 ジョージ W.トルート (George W. Truett) 第一ダラスバプテスト教会牧師、1897-1944 バプテストは世界中で数百万人にまでのぼり、頻繁にニュースを発信しています。しかし、一般的にバプテストについては、世界でほとんど知られておらず、知られていることといっても、しばしば誤解されています。一部のバプテストの人達でさえ、バプテストの信仰と慣習、伝統と歴史に精通はしていません。 たとえば、ご存知でしたか… …バプテストの牧師は、すべての人に完全な宗教の自由を提供する、アメリカで最初の統治形態を確立したことを …アメリカからの最初のバプテストの宣教師は、彼らが宣教地に出航したときはバプテストではありませんでしたが、宣教地に行く途中でバプテストになったことを … イギリスで最初のバプテストの牧師は、すべての人が、礼拝する自由を持つべきであると主張したため、(欽定訳聖書で有名な)ジェームズ1世王によって投獄されたことを … テキサス共和国に、最初に選出された大統領は、秀でた、テキサスバプテストの信徒になったことを … 初期のバプテストの何人かは、全身を水に浸ける、浸礼ではなく、水を注ぐ、潅水礼によってバプテスマを受けましたが、すぐに、聖書が教える、バプテスマを施す正しい方法は、浸水であると判断したことを …アメリカの初期のバプテストの中には、礼拝で讃美歌を歌うことによって、公に鞭打たれました。そのような、歌を礼拝で歌うということは、非霊的であり、非聖書的であると見なされていたからだったことを … アメリカから他の国へ行った最初のバプテストの宣教師は、奴隷であったアフリカ系アメリカ人だったことを …テキサス州のバプテストの牧師が、ワシントンD.C.にある、アメリカ合衆国議会議事堂の階段から、宗教の自由について説教したことを …バージニア州のバプテストの牧師がジェームズ・マディソン(James Madison)と会い、宗教の自由を保証する合衆国憲法の改正を奨励したことを …世界で最も有名な宣教師は、20世紀半ばに宣教を始めた、バプテストの人だったことを …テキサスがまだ独立した国であった時に、バプテストとして、初めてメキシコ湾で洗礼を受けた人が大手乳業会社を設立したこと …元アメリカ合衆国大統領でノーベル賞受賞者はバプテストの信徒で日曜学校の教師だったことを …寛大なバプテストのビジネスマンが、チーズを低温殺菌するための効果的なプロセスを最初に開発したことを …広く使われている信仰的な本「いと高き方のもとに」の著者は、信仰深いバプテストの家族の中で育ったバプテストの人であり、彼の父と弟はバプテストの牧師だったことを これらの「ご存知でしたか?」という項目は興味深いものですが(このシリーズの後続の記事で詳しく説明します)、バプテストを特徴付ける信仰や慣習を示すものではありません。誰かがあなたに、「一言で、バプテストを他のクリスチャンの教派と区別するなら何ですか?」と尋ねたら、あなたはどう答えますか?あるいは、「バプテストのクリスチャンでいることの違いとは何ですか?」と尋ねられた場合、あなたは何と言うでしょう?今後数週間で、このシリーズの記事はそのような問題を探って行きます。 バプテストについての知識が不足しているのはなぜでしょう? 今日、多くのバプテストの人達がバプテストであることが何を意味するのかを理解していないのはなぜでしょう?いくつかの要因がこの知識の欠如に繋がっているみたいです: * バプテスト青年同盟(BYPU)、バプテストトレーニング同盟(BTU)、トレーニング同盟(Training Union)、および教会で日曜日の夜に開催された教会トレーニング(バプテスト史上のそれぞれの時代によって、呼び名は異なりましたが、どの時代でも、目的は「弟子を作る」ことでした)は、バプテストの教理、慣習、歴史に重点を置いていましたが、それらはもはや存在しません. * 近年、他の教派から多くの人々がバプテストに加わり、また、その他の人々は、教会との関わりがほとんど、もしくは、まったくない状態でやって来ました。どちらの場合も、バプテストの信仰と慣習に関する彼らの知識は通常、限られたものでしかありません。 * …

バプテストとは:誰?何?なぜ?どこ?いつ? Read more »